「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」これは有名な林芙美子の言葉でありますが、まさに真に迫る言葉です。仏教では無常つまり常ならぬことが前提にあります。どんな美しい花も一刻であって何日も美しく咲いてくれません。仏前に供える生花も仏を荘厳すると同時に無常を教えるためにあります。人もまたその通りで明日の事さえも諸事情が入り変更せざるをえないことも多々あります。今、保っている身体さえも先が見えません。私たちはその日その日のことのみにあくせくしていることが多いですが、生死の一大事を知らなくてはなりません。
世阿弥の『風姿花伝』はわが国では口伝秘伝の伝承芸能のため、数少ない芸術論ですが、その第一章には年令ごとのしなければならないことや意識の大きさが真実をもって述べられています。七才から始まり二十四、五才の頃には「人も讃め、名人などに勝つとも、これは一旦珍しき花なりと思ひ覚りて、得たらん人に事を細かに問ひて稽古をいや増しにすべし。されば時分の花を誠の花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。ただ人ごとに、この時分の花に迷ひて、やがて花の失するをも知らず。初心と申すはこの比の事なり。」また五十有餘の項には「麒麟も老いては駑馬に劣ると申す事あり。さりながら誠に得たらん能者ならば物数はみなみな失せて、善悪見所は少しとも、花は残るべし。(中略)誠に得たりし花なるが故に、能は枝葉も少く老木になるまで、花は散らで残りしなり。これ目のあたり、老骨に残りし花の證據なり。」これらは現在は十才以上遅れているように思いますが、ただ能だけでなく全てのことに繫がっています。若い時代は若い時代なりの努力と意識を持ち、年令を重ねれば重ねただけの心構えが必要と考えます。釈尊の言葉に「熟した果実は必ず落ちる」それが道理です。またスッタニパータ(ブッダのことば)147節では「目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」。ついこの間まで新鋭と言われていたような私も老境に入ってきました。この幸せであれとの願いを絶えずもってただ独り歩むべきと思っています。
畠中光享(1970年文学部卒)
日本画家・大谷大学非常勤講師