私の故郷は修験道の開基とされる役小角(えんのおずぬ)の生まれたところで、朝な夕なに修験道の山、葛城山を仰ぎ見て育ちました。その金剛、葛城山系の北端に二上山があります。二つのこぶを持つ山で万葉の時代から歌にうたわれています。そのこぶの高い方、雄岳の頂上に天武天皇の皇子で謀反の疑いをかけられ自害したとされる大津皇子の墓があり、山を越えた西側河内には聖徳太子の墓のある「磯長(しなが)の御廟」(叡福寺山内)があります。山の東側の南麓には当麻曼荼羅(浄土変相図)や双塔が現存していることで名高い当麻寺があります。
そして二上山が真正面に見えるところに、親鸞聖人が「正信偈」や「和讃」にあらわされた七高僧の一人「源信」(恵心僧都 942―1017)の生まれられた五位堂(ごいどう)があります。子供の時に、父の死によって女手ひとつで五人の子を育てることが出来ない母は四人の娘を連れて、以前から信仰深かったこともあって仏門に入り、剃髪して尼僧となります。一人、源信は比叡山に登り出家して修行に励まれました。そこで浄土の心に至る浄土教を学び、三十八才の時比叡山の北端の横川(よかわ)に隠遁して念仏の教えを学び体得して帰依するようになりました。そして、念仏により極楽浄土往生を願う『往生要集』を完成されました。
平安時代後期以降、浄土教美術が発展し、多くの浄土教絵画が描かれましたが、その中に「山越の阿弥陀」があります。「禅林寺」や「金戒光明寺」の鎌倉時代の作は特に有名で、それらのイメージの元となる地はいくつかの説が言われていますが、私は二上山の雄岳と雌岳の間に沈む夕日に山越の阿弥陀を感じます。源信は弥陀の来迎を観想したのではないか、と思える自然な風景です。今は周囲に新しい住宅がたくさん建ち、随分と景観は変わってしまいましたが、いくつかある古墳の陪塚には人の手は入っておらず雑木も自然で、そこから見える二上山は源信の時代と変わっていないように思えます。 |