「恵信尼文書」10通は親鸞聖人の最晩年から死後にかけて上越から京都にいる末娘覚信尼に送られた手紙である。大正10年西本願寺の宝庫から発見され、これにより恵信尼の信仰や親鸞や覚信尼への思いが生の声として世に出た。聖人没後3年目の消息で恵信尼は「今年は死ぬと思い切っていますから、生きているうちに卒塔婆を建ててみたい…。」と書いている。昭和31年に鎌倉期のこの五輪塔が発見され、恵信尼の寿塔として至っている。現在は「ゑしんの里記念館」が出来その南側にこの美しく魅力的な五輪塔がまつられている。記念館は佐川急便が寄進した建物であるため滋賀県にある佐川美術館とよく似た瀟洒な造りとなっている。近くには開通を控えた北陸新幹線の高架が通っている。館内は恵信尼関係の資料の展示であるが、印刷物などコピーが多くオリジナルの展示がないのは寂しい。
そこから東の山を渓谷沿いに登っていくと山寺薬師と呼ばれる武骨な薬師如来を本尊に釈迦、阿弥陀如来をまつっている仏堂がある。この堂は室町期応永年間に焼失したが、現在の薬師三尊は銘があり、焼失後すぐに造立されたことがわかる。この辺りは山寺三千坊と言われ、半僧半農の形をとる三千軒ほどの人々が住していた。越後時代の親鸞はこの如来に詣でたことであろう。何よりも、この辺り板倉地域は恵信尼の実家三善氏の所領地であったからである。山寺薬師に至る途中に人が住んでいる所で、最高の八メートルを越したという豪雪の標があり、古来から豪雪との闘いの中で人が生きてきたことがしのばれる。それにつけても、おそらく食べるため、所領を守るためか、また諸事情で夫親鸞と離れ離れで越後に暮らす恵信尼の、親鸞への深い敬愛が感じられる消息が残っていたことは喜ばしい。
雪国でいち早く咲く春の花は辛夷(こぶし)である。この地方には辛夷が多い。恵信尼のイメージは白い花に思える。春が来れば辛夷が咲き、木蓮が咲き誇る。恵信尼の五輪塔を白い花で荘厳しようと思った。 |