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輝く☆同窓生

No.145(2020年)

西脇 一博 さん
(1989年度・文学部哲学科卒)
〈西脇畳敷物店 店主〉


柿本 遼平 さん
(2007年度・文学部国際文化学科卒)
〈柿本商事株式会社 専務取締役〉
インタビュアー
 無盡燈編集委員 釆睪 晃(大谷大学准教授)  
対談日 2020年2月

「伝統ある家業を継承していくために、
守りながらも攻め続ける」

さまざまな人間と出会う衝撃

釆睪 今回の「輝く☆同窓生」では、代々続く家業を継承するために、様々な取り組みをされているお二人に、お話を伺いたいと思います。まずは、どういうふうに大谷大学を選ばれたのかという辺りからお聞かせ下さい。

西脇 家から近かったことがまず一つあり、なんて言うのでしょう。上品な感じでした。仏教関係の大学だということももちろん知っていました。小学校2年生のころからボーイスカウトの活動を、真宗大谷派のお寺でやっていました。そこのご住職さんがたいへん立派な方で、きりっとした、関西弁でいうとシュッとしているような、そんなイメージの方でした。
そのようなことから子どものころから知っていたので馴染みのある大学ということで受験しました。

柿本 私は小学校6年生から英語を勉強していまして、勉強自体は得意ではないのですが、英語だけはすごく好きで、中学校でも楽しんで勉強しましたし、高校時代に留学をしていた時期もありました。大学でも何か英語と関わりを持てる勉強がしたいと考えていた時、大谷大学に国際文化学科があることを知り、アメリカには行ったことがなかったのですが、アメリカ文化を勉強したいと考えていまして、それで選ばせて頂きました。


西脇 一博さん

釆睪 実際に入学されてどうでしたか。

西脇 入学して最初に思ったのは、世の中にはいろいろな性格の人がいるんやと気づいたことです。小学校から高校まで全部地元の学校で、大谷大学も地元といえば地元ですが、やっぱりお寺の息子さん、娘さんが全国からたくさん来られますし、インド等いろいろな外国の方も来られています。地元の中だけですと予想される範囲内の交流関係でしたが、こんな考え方もあるんやとか、九州の人はこんな考え方をするんやとか、北海道の人はこんな考え方をするんやなど、やっぱり人との出会いですかね。大谷大学は「人」がテーマでしょう。だから人との出会いが一番大きいですかね。

柿本 私は入学時に大学のイメージは描いていなかったのですが、若葉祭において、色々なサークルの方が新入生を勧誘されていたり、屋台を出されていたり楽しい雰囲気の中で、大学のサイズ感としては非常にコンパクトな学校だなという印象を受けました。違う学科の人ともすぐに知り合えて友人になれるという意味でも、先ほど西脇さんがおっしゃった人とのつながりが非常に築きやすい環境だと思いました。


柿本 遼平さん

釆睪 大学は変人奇人がいっぱいいますが、その人が変人奇人だと気づくためにはある程度付き合いが要ります。そうすると、色んな人と付き合わざるを得ないコンパクト感も必要なのかもしれないですね。

西脇 今思い起こせば、良い意味で教員の方も変な人が多かったと思います。やはり、谷大の先生の個性の豊かさは衝撃でした。
私は哲学科だったのですが、哲学の先生は誰をとっても良い意味でおかしかったです。哲学の先生は答えがないことを勉強されています。それを20歳そこそこで学ぶことができたのは良かったと思います。変わった学問でした。

柿本 私が印象に残っているのは古川哲史先生です。アメリカの黒人の歴史や文化の研究をされていたという事や、アメリカの刑務所で受刑者に異文化理解の授業をしていた経験があるという興味深い背景をお持ちの先生でした。先生の実体験から伝えられる授業はとても臨場感があり面白かったので、食い入るように受けていたのを覚えています。卒業後の進路でも相談に乗って頂いたこともありますし、非常に印象に残っています。

家業を継ぐ


釆睪 晃 編集委員

釆睪 お二人はどちらとも家業を継いでおられます。西脇さんは、最初証券会社に勤められて、そこからまた違うところに行かれました。すぐに継がれなかったのは何か理由があったのですか。

西脇 当時はバブルで本当に景気が良かったのです。それで谷大の一つ上の先輩が来られて「景気が良いから一声かければ受かるから就職しろ」と言われ、それなら就職試験を受けてもいいかなと思いました。でも、一応長男なので父に言ってみました。「先輩が証券会社に来いと言っている。東証二部上場(今は一部上場)なので結構大きい会社に就職できるらしい」というようなことを言ったら、父に「就職してもいいよ」とあっさり言われて驚きました(笑)。逆に寂しかったくらいです。それで10年間やって、また谷大の先輩からの紹介で、コンビニとかスーパーに食品容器を卸している商社に転職しました。
その後、33歳のときに家業を継ぎました。何となくそろそろ畳のことを覚えないとまずいなと思って、父に言ってみたら、「それなら明日から来たらいい」と。「まだ会社に辞めると言っていないので明日はちょっと」と言うと、「じゃ気が向いたときに来いや」と、本当にあっさりという感じでした(笑)。

柿本 お父様はすでに引退しておられるのですか。

西脇 父は77歳で今も働いています。今日も滋賀県まで配達に行っています。やっぱり職人なのでしょうね。止まると死ぬと言われる人がいますが、まさにそのタイプです。

柿本 お父様と仕事で衝突みたいなものはありましたか。

西脇 前向きな衝突はたくさんあります。例えば、今はメールやファックスがあるのに、図面を書いて、お客さんのところに郵便で送って、2日後に「こんな図面でやるんや」と、そんな非効率的ことをしている。帳簿も手で書かなくても伝票を入力すれば確定申告までできるのに、いったん紙に写して税理士まで持っていって税理士が申告書を書いてと。「同じことだからこっちのほうがいいで」と言っても、「あかん、うちはこれ」みたいな。
私も柿本さんも、攻めの姿勢がよく出ている方でしょう。それでも、今の学生からは、私たちは保守的に見えるでしょうね。私たちは、学生を危なっかしいなあと思ってしまいます。それと同じように、同じものを目指しているのに違う対処方法を言っているというのはあります。
逆に、それぐらいしかありません。

釆睪 今みたいなご質問が出るということは、柿本さんもいろいろあるということですね。


アメリカ留学時の友人達

柿本 いろいろありますね。私は卒業してから2年間アメリカに行き、ビジネスの勉強をしました。そして帰国当初、弊社には、チラシ・ポスター・カレンダーなど商業印刷に使われる紙卸の本店営業部があるのですが、私はそちらの事務所で働き始めました。私としては、社内の業務を把握する為に各部署を何か月かごとに回りながら会社全体の業務を覚えていこうと考えていましたが、社長からそんなことはしなくていいと言われました。
入社当初、「恋文大賞R(現 言の葉大賞R)」という作文コンクールの応募作品を整理する仕事を行うよう指示されました。そこでは、受賞作品をどの作品にするか、授賞式の進行をどのようにするかなどで、意見の食い違いがありました。当時は根本的に考えが違うと思っていましたが、私の経験の浅さからだと、後で理解をすることも多々ありました。そのように考えてみれば、今でも日々学ばせてもらう事が多いです。

釆睪 それは西脇さんがおっしゃるような前向きの衝突ではないですか。アメリカの留学から帰ってこられてスッと家業に入られたのですか。

柿本 そうですね。大学在学中には、なりたいものとか、こういう職業に就きたいという夢は、正直持っていませんでした。そんな中で第3学年になり、周りが就職活動をしている中で、私もセミナーに行ったり、いろいろな先輩の話を聞かせて頂いたりしていました。ある時に父親と話をしていまして就職活動を始めていることを知られまして、「お前はなんで就職活動をするんや」と言われ、「えっ!?」と思いました。私の中では西脇さんみたいに一度外に出ていろいろな経験を積んでから家業を継いだ方が、という考えもありましたし、正直最初からすぐに入る考えはなかったのです。
その時に「留学という選択肢もあるぞ」と、父が私に言ってくれました。今のご時世だからこそそういう能力も必要だということと、私が英語を好きだったということで、手を差し伸べてくれたのです。口数もそんなに多い方ではないので、あのときの記憶は今でも覚えています。それから『地球の歩き方』を見ながらアメリカのどこに行こうかなと調べたり、ICCという留学オフィスを訪ねたりしました。
2008年に大学を卒業しまして、9月から翌年の7月までの約1年間アメリカのボストンに行ったのですが、もう1年シアトルに行きたい学校がありました。しかし、その学校が始まるのが2010年の4月からだったので半年ぐらい時間がありました。それで、父親に相談し、いったん入社をさせてもらいました。

主役を超えて

釆睪 お二人の活動で非常に面白いなと思うところは、失礼な言い方になるかもしれませんけれども、畳にせよ紙にせよ、主役にはなりにくいものです。そういうことをお仕事になさるということについてどんなふうに考えていますか。また、畳の楽器や「言の葉大賞R」とか、従来の在り方を超えたものがもたらすものは何でしょうか。

西脇 やっぱり素材の優秀さですかね。畳も紙もそうだと思いますけれども、やっぱり長年使われてきていますし、人間の文化に絶えず寄り添っています。そういう部分が最大の強みでしょうね。私たちは、それをいかにお客さんに適切な方法で供給するか、ということなんです。どれだけ派手でインスタ映えする料理でも、素材が悪かったら流行りません。素材の素晴らしさがあってこそ、いろいろと自由なことができているのだと思います。
素材としての素晴らしさがあるからこそ、畳でいろいろなものを作りたくなるのです。四角い畳ばかり作っているとだんだんマンネリになってくるのです(笑)。これは私がよく言うのですけれども、男子高校の近くの散髪屋さんだったら、ロン毛やパーマや脱色が校則で禁止されていて、みんな同じようなスポーツ刈りをすることになっているでしょう。でも、たまにはアフロヘアやドレッドヘアがしたいと思うでしょう。それと一緒で、畳で何かみんなにすごいねとか、輝いているねとか、とんがっているねと言われるようなものを作りたくなるのです。

畳でサーフボードとか、ピアノとか、和室なのにパットゴルフができるコースを作ったりしてるのも、最初は気づかなくてもその素晴らしさを知るきっかけになったらいいなということなのです。
当初はバンドをやるつもりはありませんでした。音楽が好きな人達が集まって、バンドになって、今も活動を続けています。海外でも台湾やマレーシア、韓国などで演奏をしました。年間30回ぐらいライブをやっています。
畳というのはそもそも茶の間や大広間や茶室などのコミュニティツールの中にあるものなのですけど、違うタイプのコミュニティツールとして通用したのがおもしろいかなと思っています。


台湾でのコンサート

釆睪 なるほど。役割が変化しているというのは面白いですね。柿本さんの活動にも同じような面白さを感じます。

柿本 弊社の企業理念は「紙を通して文化を創造する」なのですが、西脇さんも「畳を通して」という考えの中で文化の重みというのは一言で語ることはできないでしょう。やはり今こういうITの進化とともに色々なものが便利になっている一方で失われているもの、私でさえも子どものときに当たり前にあったものが今は無くなってきています。そういう環境の中で、日々を過ごしていると、願いたくはないですが、近い将来に紙の書籍が失われ、文化の遺失に繋がってしまうのではないかと思えるのです。そうした中で次世代への紙の伝承方法として、現社長が「恋文大賞R」を始めたのがまずきっかけでした。着想としては昔から人が想いを伝えるときには手書きの手紙を相手に渡して伝えていたと、それを何らかのかたちで再現できないかということが始まりです。文字・活字文化の推奨、それは手書きを通してコミュニケーション能力・創造力を高めることにも繋がるのではないかと思いました。そして年々教育機関からの応募が増えてきたこともあり、第5回より名称変更をし、今の「言の葉大賞R」という形になるのです。
和紙も畳もそうだと思いますが、個々の存在としては常に主役である必要もないのではと思います。でも、和紙も畳もその空間になければ完成しないのも事実です。そこにほんまもんがあるからこそ、その環境が成り立つ、それが大切だと思います。和室の環境を一つとりましても、和室というものがどういうものか分かっておられる方にとっては、畳や和紙は自ずと絶対必要条件の中に入ってきます。「言の葉大賞R」に作品を書いてくれている子どもたちも、いつか物事の中にある本質を分かってくれればいいなという考えでいます。

攻めと守り

釆睪 畳にせよ紙にせよ、新しい形式を生み出していかないと難しいことでしょうし、それと同時に守っていかねばならないものもありますよね。老舗と言われるレベルまで続く家業に携わっておられて、意識しておられることはありますか。

西脇 畳は一時と比べると減っているのですけれども、実は減り始めたのは平成になってからぐらいで、それまでは普通に増えていたのです。畳も減っていますけれども、畳屋も減っています。例えばお寺が寄付を集めて畳替えをしようとなったときに、それができないぐらい職人が減っています。年配の職人さんが亡くなって畳屋が無くなっても、ライバルが減って良かったというレベルではないのです。文化は失われて初めてその大切さに気づくと言われますが、今ここで何とか頑張らないといけないなと思っています。畳は、減っているどころではなくて、今何とかしないといけないラインまで来ているのは間違いないです。もっとも、民泊とかゲストハウス、空き家の再生、古民家カフェとかの需要で、ここ2年ぐらいは増えているかもしれません。右肩下がりのイメージがあるかも知れませんけれども、皆さんが思うほど落胆していないというか、明るくやっています。
今一番しないといけないことは、生き様・働き様を見せることだと思います。そして、今はそれができる世の中です。私たちが働いている姿を動画でみんなに見てもらう。失敗して手を突いて血が出ているとか、一所懸命夜遅くまでやっているとか、何でもいいのです。昔は、お客様はその工程を知らなくてもきれいになったからとお金を払って下さいました。今はそういう文化に触れるとか自分の家の畳がどういうふうな成り立ちであるのかということも含めて、どのような気持ちで、あいつはどんなことをしているのか、ということを本当に包み隠さず見てもらえたらいいなと思っています。
私の店に関しては、大宮通りから見えるところで畳を作っています。だから、畳の修理を出した人は工場に見に来て「あいつさぼってないか」と一所懸命に作っているところを見ることができます。お客さんにいつ見てもらっても恥ずかしくない仕事、「あいつまじめに働いているわ」とわかってもらえる仕事をすることが大切だなと思います。よく外国人が店先の私の姿を撮影していきます。「これが日本のトラディショナル文化の凄腕職人だ」みたいなことをSNSで書かれたら変なことはできないなと思うこともあります(笑)。でも、そうなったらみんなに理解してもらえます。いい時代だと思ってどんどん取り入れています。もっと挑戦する時でも、私も古いので守ることの大切さをわかっている世代ですけれども、ここ10年20年というのは攻めながらも守れるようになりました。今は発信していても同時に守っていけるという世の中になっていると思います。

柿本 弊社も西脇さんと同じような考えを持ちながら進みたいのですが、守りの面においては避けては通れない、超えていかなければならない大きなハードルがあります。先程もお話をした紙の需要衰退はもとより、和紙の分野では、手漉き和紙の生産者の数が減っているということです。私もそれこそ10年ぐらい前に初めて黒谷和紙の産地に伺ったときに、生産者の方といろいろお話をさせて頂いたのですが、30年も前には54軒の家の中に専用の紙漉き場があったのですが今残っているのはたったの1軒です。それではなかなか生計をたてるのが難しい。そういう環境の中でも丁寧に1枚1枚の紙を私たちのために一生懸命お作りいただいています。その1枚1枚を扱える私たちはその環境こそ幸せだと感じないといけないですし、商品をお渡しするお客様に向けてもその生産者の思いを一緒に届けることが大切だといつも感じています。

釆睪 オタク文化がものすごく流行っています。彼らは、たかだか一つのモノに膨大な背景を読み込みます。それに触発されて、私たちはたった一つのモノやコトからでもいろいろな物語を見出し得るのだということに気づいてしまった。売る側からすると、モノだけにすがってモノを売るのは難しくなってきたのかも知れませんね。

柿本 それはそうですね。近年はプロダクトに対する思いやストーリーが大変重要視されてきていると感じます。そんな中で、紙を通して何か新しいことができないかとずっと考えていました。この「御酒印帳R」という企画もその一つです。今流行りの御朱印帳をお酒に変えたのです。集めていただくのはお酒のラベルです。ラベルを集めることをきっかけに、従来の日本酒のファンだけでなく新しいファンの方も増えてきています。これをやるにあたって、酒蔵さんに、この「御酒印帳R」を持ってこらた方にラベルを渡して下さいとお願いしているのですが、酒蔵さんにとってラベルは大切なブランドですので、渡すことをためらわれる方もたくさんおられました。ただ、私たちがいつもお伝えしているのは、酒蔵さんと一緒にプロジェクトをやることで、いろいろな地域の方々とのつながりを広げていきたいということです。そこから新しいビジネスプランや人脈から生まれる次への可能性へと広げていければと思っています。
例えば、金沢の酒蔵さんにもご協力を頂いているのですが、長い歴史を持つ酒蔵さんでも期待されているのは、新しい客層です。ただ単に日本酒が好きなだけでなく、こういうことをきっかけに新たなマーケットの創出ができればという期待も込めています。私たちも酒蔵さんと実際お話しさせていただくときは、「私たちだけの商品が売れて良い思いをしたいわけではありません、酒蔵さんへも多くの方に訪問して頂き一緒にプロジェクトを動かし、お互いが喜びを分かち合えればいいですね」と話しています。
また、プロジェクト開始当初より、旅行会社さんからバス旅行の企画として取り上げて頂いているのですが、今年も実施するとの連絡がきました。一日で幾つかの酒蔵を回る企画が毎週末に実施されるのですが、ほとんど満員です。本当にありがたいことです。

西脇 バスツアーですから、飲酒運転の心配もありませんしね。

柿本 これがきっかけで、7月からもこの続編のお話があります。
また、昨年から、京阪電鉄様とのタイアップで「御酒印さんぽ」というイベントが始まりました。伏見を代表する多くの酒蔵さんを御酒印帳と一緒に巡るというイメージをしてもらえればと思います。

面白がる

釆睪 でも、新しいことは怖いですよね。失敗する可能性もありますし。

柿本 やはり未開の地に飛び込んでいくのは、先が見えない怖さがあります。ただ、仕事というのは一人で始めて一人で終わるわけではありません。その先には相手さんがいらっしゃいます。そのような事から綿密なリサーチ、マーケティングが必要になります。ただ、あらかじめ手に入れたデータをもとに動いても全然違う要素が入ってくることが多々あります。もちろん、リスクヘッジを考えながら挑戦ができるしっかりとした戦略・戦術と、実行するタイミングが非常に重要です。西脇さんと同じく守りながら攻めるということです。今これだけ情報化社会になってきて、多くの情報が30年、40年前に比べると手に入りやすくなってきました。
その一方で、あらためて私たちは足で稼ぐという古くからの手法も必要だと思っています。
実は、先ほど紹介した「御酒印帳」のガイドブックを出版したのですが、「どの酒蔵が登録されているか分かるものが欲しい」というユーザーの方からの声を頂き作ったものです。これを多くの人に手に取って頂くために、書店営業に行きます。最初は、どういう話をしたらいいのか分かりませんでした。だから、そういうところから勉強を始めるのです。例えば店舗数の多い書店様だったら本部直轄で仕入れと出荷をして頂く方法もあります。けれども、書店様によって、各店舗の裁量で仕入れる書籍を選定されているところもあります。そのような事から、現状としては、直接訪問し、担当者の方と直に話をします。今では、時間をみつけて大阪や他のエリアの書店様へ訪問し、直接担当者の方々と話をしています。そういう伝統的で地道なことも、そこから見えてくるものもあります。

釆睪 地道なことと仰いますが、おもしろがっておられることがお話を伺っていて感じられます。やっている本人がおもしろがらないと、その姿を見せても「あの人つまんなそうやな」となりますからね。

西脇 自分の生を心から本当に楽しんでいるとは思えない方がたくさんいらっしゃると思います。いろいろなしがらみがあって、いろいろな出来事があります。そんな中でも、せっかく生まれてきたのだから情熱を爆発させて生きていきたいですよね。
しかし、柿本さんもそうですが、私も古い家に育っているので、むやみやたらと新しいことに手を出すわけにはいきません。また、無責任に新しいことを始めて、失敗してもいいやともいきません。自分のバックボーンというものがちゃんとあって、そこに根付いているということを、頭のどこかで感じながらやっています。一つや二つ失敗しても先祖代々お世話になっているお得意先とかご近所の方とかに守られているということはありがたいことです。だから思い切ってできるのかなというところはあります。

釆睪 若者の表現で「やばい」というのがあります。最初は否定的な意味だとばかり思っていました。それが「この店、めっちゃやばいし、毎日通いそうやわ」というのを聞いて、積極的な意味でも使うことに気付きました。自分の常識のちょっと一歩外側にある感じのものを「やばい」と言っているのかも知れません。

西脇 「やばい」ということが良いことだとしたら、親鸞さんなんかは仏教界ではものすごく「やばい」ですよね。だからファンがつくのですよ。そう思います。

釆睪 表現方法などは時代や状況によっていろいろ違うのでしょうが、ちょっと「やばい」ところに一歩踏み出すということがものすごく大事なのかなと思います。本日は、楽しい時間をいただきありがとうございました。

西脇畳敷物店
創業 明治2年(1869年)

京都市上京区大宮通寺之内上ル仲之町493
TEL:075-441-5525
ホームページ:http://www11.plala.or.jp/nishiwakitatami/
主な事業内容:畳製造業、室内装飾業
畳製造者として、畳を取巻く住空間の研究、京町家の再生など畳文化の継承に努力しています。また近年の住環境や志向の変化に対応し、インテリア部門「インテリアニシワキ」はトータルリフォームを視野に入れた幅広いニーズに対応致しています。
労働大臣認定一級技能士の店/京都畳商工協同組合加盟店
京都青畳会加盟店/各派社寺御用達
「京の老舗」表彰店/畳殺菌乾燥機設置店

柿本商事株式会社
創業 弘化2年(1845年)

京都市中京区麩屋町通三条上ル下白山町310
TEL:075-211-3481
ホームページ:http://www.kyoto-kakimoto.jp
主な事業内容:洋紙卸・和紙・和製品小売・出版事業・リテラシー事業
沿 革
1716年(享保元年) 柿本 竹屋長兵衛の屋号にて竹の商いを始める。
やがて若狭の親戚から長兵衛のもとへ養子として迎えられた金藏は斬新な発想の持ち主で、「町内みんなで竹屋をしていても知恵がない」と、1845年に紙屋を創業。その進取の気性は、2代目乙五郎 3代目 藤次郎 4代目 新太郎 そして当代 新也へと受け継がれていきます。そんな歴史の中において昭和51年(1976年)にショップ&ショールーム「紙司柿本」をオープンし、一般の方々にも紙の素材を提供するようになりました。「柿本」が積み重ねてきた足跡は和紙から洋紙、紙製品へと紙の可能性を追求する歴史へと変化し、今も次の方向へ進化の歩みを研鑽しています。

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