現役教員からのお便り
No.145(2020年)
大谷大学教授(真宗学) 加来 雄之
安田理深(1900〜1982)師は、還暦の年、洛南の東寺において、20世紀を代表する神学者P・ティリッヒ博士と対話した。博士が「人間にとって宗教はどのような意味をもつと思いますか」と尋ねたとき、師は間髪を入れず「宗教がなくて人間といえますか」と応えたという。
先日、中国出身の親鸞研究者が、仏教伝道協会の受賞スピーチにおいて「私は、親鸞を通して出遇った真実を、中国の若者たちに伝えていきたい」と陳べていた。
思えば、親鸞は、人の世における完全な依り処、つまり真宗を求めた人であり、そして、その真宗を本願他力の教えに見いだした人であった。
親鸞は、真宗を教義として語ったのではない、みずからが法然上人を通して出遇った真実を、人間であることの深い悲しみを、如来の弘い願いを、過去・現在・未来の無数の人びとの声なき声を、伝承のなかに証しされてきたことばのなかに聞きとり、どこまでもどこまでも厳密に語ろうとつとめたのである。
私たちは、資本主義という過酷な社会体制のなかを生きているのだが、この原稿を書いているとき、新型コロナウィルスによる感染症拡大が、その社会の隠されていたひずみを、これでもかというほど露見させつつある。この現実を問い返す視座が実現できないならば、私の学びはなにであったのか。もし教義によって、この現実を解釈したり、現実から逃避したり、現実を非難することに終わるならば、私にとっての真宗とはなにであったのか。
人間のあらゆる営みを生きることの根底から問い直し、受けとめなおし、歩みなおすための眼差しが真宗であるならば、それはすべての人間の究極的課題ということになる。わたしがこの大谷大学で学生たちとともに学ぼうとしてきたことは、仏教の概念でもなく、親鸞の教義でもなく、この深く広い眼差しを学ぶためだったのだということを、このごろ強く思う。
大谷大学教授(社会学) 阿部 利洋
日々通った大学のキャンパスを覚えていますか?教室や講堂の光景が目に浮かびますか?図書館で勉強する姿を思い出す人はすばらしい。学食や喫煙所が最初に来ても、まあいいでしょう。そこで友人といろんなことを話したはずですから。
ところで、ゆっくり思い出すと、キャンパスの中に何となく気に入っている場所がありませんでしたか。小さくきしむ尋源館の階段とか、授業の合間にまどろむのに丁度よい響流館3階奥の長椅子とか、お香の幽玄なにおいが漂う某先生の研究室とか、そういうたぐいの。
私にとっては正門の横に根を下ろす菩提樹で、好きなのはその実なのです(菩提子と呼ぶそうです)。小舟のような葉に実がいくつかぶらさがる形をしており、秋には正門の周りにたくさん落ちています。風が吹くと、くるくる回りながら落下する様子も見られます。大きさ、葉のねじれの角度、実のついている場所など、一つ一つ少しずつ作りが違うので、すべての実が異なる回転で落下します。偶然強い風に吹かれて、離れたところへ運ばれていくのもある。一つ一つ、どのように回り、どこへ運ばれ、どこに落ち着くのか。こんなことを思いながら、道に落ちているのを見ると、つい拾ってしまいます。退職された先生を想うこともあり、面白い意見を述べた卒業生の姿を重ねることもあります。
キャンパス来訪の際には、皆さんの密かなお気に入りの場所とともに、正門横の菩提樹に寄ってみるのはいかがでしょうか。季節がよければ、くるくる回る菩提子に我が身を重ねてみることができるかもしれません。