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大谷大学と私

No.149(2024年)

大谷大学と私
名誉教授  
沙加戸 弘
本願に帰す

 しかるに愚禿釋鸞 建仁辛の酉の暦 雑行を棄てて本願に帰す

 これは、親鸞聖人がその主著『顕浄土真実教行證文類』の最後に記された文の一部です。山を出て六角堂の聖徳太子のお示しによって法然上人の御許に参上、本願念仏に遇われた時の何にも替え難い聖人の喜びと感動がひしひしと伝わってきます。

 「帰」という字の旁は、「ヨ」、「冖」、「巾」です。由来は、「ヨ」は「女」、「冖」は「家」、「巾」はその形からわかりますように「箒ほうき」です。3000年前の中国の感覚ですが、女の人が家の中で掃除をしている、言ってみれば居るべき人が居るべき場所ですべき仕事をしている、という字で、本来のあるべきかたちにたどりついた、最終目的が明らかになった、という意味を表す字です。

 昭和44年春大学を卒業し滋賀県のとある小学校に教諭として赴任致しましたが、様々の事情によってわずか2年で棒を折り、私は改めて大谷大学の門をくぐりました。

 今から思えば、この時感じた安堵感はそれまで経験したことのないものでした。敢えて言葉にすれば、「あゝ私はここへ来たかったのか」、「ここへ来るのが本当だったのだ」とでも言うべき安堵感でありました。

 この大学で、多屋頼俊、山本唯一両先師の講こう筵えんに列し、この国の感動の歴史の土台に仏法があり、それが文化の中に具体化されていることを明確に認識することができました。

 聖人と私とを同列に論ずるは如何なものかと思いますが、私の「浄瑠璃」という芸能の研究は、この大学で仏法という根幹を得て大きな枠組みを持つこととなったのです。

 一例を挙げれば、寛文12(1672)年の秋、京都の書肆靏屋喜右衛門・八文字屋や八左衛門が、親鸞伝に関わる浄瑠璃の正本(上演と同時に発売される上演作品の台本)の刊行を廻って東本願寺と行き違いを起こしました。

 「平太郎記板行一件」と名付けられたこの事件は、それまでの東本願寺の『粟津家記録』によってのみ考察され、視野と状況把握に不足の感がありました。『粟津家記録』は、後に編集された件別の記録で、これとは別に日を逐って記録された『粟津日記』が存在しています。度々の火災によって、欠けた年次が多くありましたが、幸い寛文12年分が現存し、それを確認することができました。これによって、この「平太郎記板行一件」の全容が解明できたことは、私の研究の一つの大きな区切りであったと考えています。

 総じて日本の文化は、度来した仏法の具体化、生活化です。今を時めく超高層の建物でさえ、本造の塔の研究なしには生まれなかった、と聞き及びます。

 まさしく大谷大学は、日本文化の研究の土台となるべきところ、出発点となるべきところと確信します。そして何よりも私の帰するところでありました。

略 歴 紹 介

沙加戸 弘(さかど ひろむ) 名誉教授

1946(昭和21)年9月 滋賀県に生まれる
1969(昭和44)年3月 滋賀大学教育学部卒業
1973(昭和48)年3月 大谷大学大学院修士課程修了(仏教文化)
1976(昭和51)年3月 大谷大学大学院博士課程満期退学(仏教文化)
1986(昭和61)年4月 大谷大学講師
1991(平成3)年4月 大谷大学助教授
1999(平成11)年4月 大谷大学教授
2000(平成12)年11月 大谷大学 博士(文学)<学位取得>
2012(平成24)年4月 大谷大学名誉教授
2000(平成12)年4月~ 2002(平成14)年3月 大谷大学図書館長
2004(平成16)年4月~ 2006(平成18)年3月 大谷大学真宗総合学術センター長
2004(平成16)年4月~ 2006(平成18)年3月 大谷大学図書館長

【専門】
国文学(近世演劇・近世仏教芸能・近世仏教文学)

【著書・論文】
『親鸞聖人 御絵伝を読み解く』(単著・法蔵館 2012年)
『真宗関係浄瑠璃展開史序説 -素材の時代』(単著・法蔵館 2008年)
『親鸞聖人四幅御絵伝 絵解』(単著・方丈堂出版 2006年)
『明義進行集 -影印・翻刻-』(共編・法蔵館 2001年)
『魚太平記 -校本と研究-』(共編・勉誠社 1995年)
『古浄瑠璃正本集 角太夫編 第三』(共編・大学堂 1994年)
『古浄瑠璃正本集 加賀掾編 第五』(共編・大学堂 1993年)
その他

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