無盡燈/尋源館
無盡燈読むページ

輝く☆同窓生

No.146(2021年)

田村 圭吾 さん
(1991年度・文学部仏教学科卒)
〈京料理萬重 若主人〉


西尾 晴夫 さん
(1993年度・文学部哲学科卒)
〈ニシオサプライズ株式会社 代表取締役〉
インタビュアー
 無盡燈編集委員 三宅 伸一郎(大谷大学教授)  
対談日 2021年2月

「伝統ある家業を継承していくために、
守りながらも攻め続ける」

自分の可能性に気づく

三宅 今回の「輝く☆同窓生」では、2020年12月にユネスコの無形文化遺産に「伝統建築工匠の技 木造建築物を受け継ぐための伝統技術」として登録された中の茅葺職人としてご活躍の西尾晴夫さんと、2013年に同じく「和食」が登録され、その記念晩餐会で料理人を務め、現在では家業の傍ら文化庁の文化交流使や京都観光おもてなし大使としてもご活躍の田村圭吾さんに、日本を代表する伝統文化を継承するやりがいやご苦労について対談いただきます。 それでは早速ですが、大谷大学に入学した経緯と学生時代の様子についてお話しください。


西尾 晴夫さん

西尾 親の仕事の都合で全国を転々としましたが小学校と中学校では、社会科の歴史・地理の進み方が学校によって違ってました。そのため私は社会科でぜんぜん得点できず、それで高校のときに独学で倫理政経を勉強したのです。もともと理系志望でしたが、急遽文系の哲学科に行こうと思いまして。倫理政経で受験できるところといったら関西では大谷大学しかなかったのです。それがわかったときは大谷大学の入試が終わっていたので仕方なく一浪しまして、翌年大谷大学一本で受験しました。浪人中に哲学書を読み漁り、西田幾多郎先生がかつてここで教鞭をとっておられたということも受験した理由のひとつです。

三宅 哲学に興味を持ち、西田先生が教えておられたということもご存じで哲学科に入学したということですね。

西尾 しかし、大学ではほとんど勉強していませんでした。親には申し訳ないですけれども、学費の全部は体育館使用料みたいな感じでした(笑)。


田村 圭吾さん

田村 私は家が料理屋ですので専門学校に行ってからそのまますぐ修業に入るという方法があったのですが、大学はやっぱり行っておいた方がいいだろうと。子どものときからボーイスカウトをしており、その中で「明確な宗教心を持ちなさい」と教えられたこともあり、その体験からいろいろと考えることがあったのと、歴史とか民俗学的なことが好きなこともあったので、高校の先生に相談したら大谷大学なら宗教心みたいなことも学べるといわれ、指定校推薦で仏教学科に入学しました。 学生時代はボーイスカウトに力を入れていましたので、京都の代表をさせていただいたり、日本代表としてオーストラリアに派遣されたりという中ですごく勉強になりました。2019年には文化庁の文化交流使として世界六ヵ国を周りましたけれども、宗教的概念から世界の人々と向き合えたというのは、今の私の大きな一つの財産かなと思います。


ニュージーランド大使公邸での晩餐会

三宅 伸一郎 編集委員

三宅 大谷大学で学んだことで役に立ったことがございますか。

西尾 大学ではバスケットボール部に入りまして、当時の体育会は先輩の言うことは絶対で、そこでだいぶ開発していただきました(笑)。
例えば、学食で先輩とご飯を食べていて、先輩がご飯を奢ってくれるのですけれども、「西尾、食後にこのテーブルの上で歌うたえ」と言うのです。歌というとあの大谷大学の第一寮歌なのです。「いや先輩、皆さん食事されているのにこんなところで」と言うと、「誰のおかげで飯食べられてると思うてんねん」と言われて、それでテーブルの上で「押忍!大谷大学哲学科バスケットボール部一回生西尾晴夫、歌います!!」と言って「若き血潮に~~」と歌うと手拍子が始まりまして、最後に拍手でワーと言って喜んでくれて。私はこんなところで歌うのは非常識だし、失礼だと思っていたのですが、みんな喜んでくれるので、「ここまで俺ってできるんだ」とすごく世界が広がったのです。
それは先輩のおかげだなと思っていまして、だから茅葺職人というのが、今、二十代で誰も日本にいない状況の中で「よっしゃ、俺がやってやろう!」という下地は大谷大学の体育会でできたのです。


職人のみなさんと

三宅 先ほど「開発」とおっしゃっていましたが、ようやく理解できました。これまでできなかった状態を打ち破れたという意味での開発ですね。

職人の道を選ぶ

三宅 卒業されてから職人の道に進まれたきっかけは何でしょうか。

西尾 直接的なきっかけはアルバイト情報誌で茅葺職人の募集を見たことです。私は会社で働くイメージが浮かばなくて就職活動を一切せず、アルバイトを探そうと思って情報誌を見たら茅葺職人募集というのがあったのです。

三宅 情報誌の茅葺職人募集を見て、本当にすぐ決断されたのですか。何の迷いもなく?

西尾 迷いはなかったですね。でも親を始め、周りからは大反対されました。茅葺職人になると決めたというと「あほとちゃうか」とか言われたんですが、この大谷大学で四年間先輩に鍛えていただいて、もう自分にできないことはないと無限の可能性を自分に感じていましたので「できるはずだ!!」という根拠のない自信で何を言われても気にはならなかったです。

三宅 田村さんは、迷いはなかったのですか。


小学校での食育授業

田村 私は長男ですから選択の余地がありませんでした。しかし、敷かれたレールに乗っかりたくなかったのでしょうね。教職を考えて、教育実習に行く前に、実は親戚から「お前はもう二度とこの家の敷居をまたぐ気はないのやな」と言われて、「どういうことですか?」と聞くと、「お前はお前の両親だけが育てたわけではない。お前はここの長男としてこの家の跡取りとしてわしもそうだし、おじいちゃんもおばあちゃんも従業員もそうだ。その期待を裏切って好きな道に行くのだったら行ったらいい。その代わりに二度とこの敷居をまたぐなよ」と言われて、確かにそうだなと思いました。でも、大学で履修していた教職課程で学んだことが、もう二十年近くやっている食育活動にもプラスになりました。

三宅 敷かれたレールには乗りたくなかったけれども、親戚の方に「この敷居をまたぐな」と言われて決心されたのですね。

田村 はい。それで卒業後には、一年ちょっとカナダのLanguage Schoolに通っていたのですけれども、その時の経験がのちの料理業界の海外での普及活動や文化交流使につながってくるのです。帰国後、各地で修業して京都へ戻ると間もなく、日本料理アカデミー(※)という団体が設立され、海外のシェフとの交流事業や私がボーイスカウトで得た経験から、食を通して日本文化の普及活動をする食育がしたいなと思ったんです。単に栄養がどうのとか、朝ご飯をきちんと食べようということではなく、日本料理は日本文化の集合体として重要なんだというところを子どもたちに伝えたいなと思って、それからずっとさせていただいています。

三宅 すんなりと家業を継ぐということになったのですか。

田村 そうですね。たぶん西尾さんは職人として本当に歩まれた方だと思いますけれども、私は、仕事は?と今聞かれると料理人というより料理屋の主人業みたいなことをしていますと答えるようにしています。例えば私が職人としてのこだわりを持って、良いものを最高のものをと追っていくことも大切ですが、商売とのバランスを考えねばなりません。もちろん料理はしますが、今は店の中で包丁を持つより、外でいろいろな教室をやるとか、お客さんと話したり出迎えたりすることの方が多くなりました。でも、今日も中央市場に行ってきました。やはり料理の基本は目利きなので。
※ 田村さんの日本料理アカデミーでの活動や、和食が無形文化遺産に登録された経緯については同窓会ホームページで紹介しています。

経験から学ぶ

三宅 西尾さんは新しい世界に飛び込んで一番苦労されたことは何でしょうか。

西尾 レールに乗りたくなかったというのは田村さんと一緒です。しかし、職人になって一ヵ月で後悔しました。これはないわと。まず雨が降ったら仕事ができない。冬場に雪が降っても仕事ができないのです。兄弟子は冬場にスキーのインストラクターをしておられて、私は仕方がないので焼き芋屋をしていました。
芋の仲買いさんに「病院の前だったら売れると聞いたで」と教えてもらったので、東福寺近くの病院の前で一日100本以上売っていました。

田村 今だったらガードマンが来て追いやられそうですけどね。


イギリスでの武者修行

西尾 いや、当時も警察が来て駐禁を取るのです。それでパトカーが来たら片付けて逃げて、また戻ってやってました(笑)。その時に独学で商売というものを覚えました。ある時、人だかりができたら人が寄ってくるということに気がついて「ちょっとお願いしますわ」と言って雑談して引き止めるのです。そうして人だかりができたら芋を売って、最後の一人二人になったらまた引き止めてといった売り方をしていました。
また、京都の四条に行列のできる焼き芋屋さんがありまして、そこに行って「おっちゃんの店すごいので見させてくれ」と頼み、一日立たせてもらうと、そこの大将は、「冷やしてから羊羹みたいに切って、爪楊枝で刺してお茶請けとして食べてください」と口上を述べていました。焼き芋なのに冷めてからが美味しいので遠く東京から買いに来られる人もいて、五千円から一万円分まとめて買われるのです。それで同じ芋でも売り方ひとつでこんなに違うのかということを学びました。
今、茅葺きの一棟貸しをやっていますけれども、職人だけでなく、そういう商売ごとができるのは、独学で焼き芋屋の経験で学んだからです。
また、26歳の時にモスバーガーさんがスポンサーになってくれて1ヵ月イギリスに行って修行しました。その時にクリスさんという親方に「日本で三人しかいない二十代の職人の一人だけども、帰っても続けていけるか不安です」と相談したら、「ハルオ、もっと自信を持ちなさい。これは人類最古の技術なのだから。」と言われまして、それでハッと気がついたのです。五千年の歴史があると言われる茅葺職人の末裔なのに、よくよく考えれば美山の技術しか知らなかったのです。
昭和一桁生まれの職人さんは全国にたくさんいらっしゃったのですが、二十代は三人しかいないという状況の中で十年後を見たときに、その先輩方が辞めたら日本の特色のある、地域性のある技術がなくなってしまうと気づきました。それからは冬場の焼き芋屋を辞めて全国武者修行を始めて「ただでもいいから働かしてくれ」と言って茨城県とか岡山県とかで働きました。そのおかげでいろいろな地方のやり方を覚えて、今では全国から依頼がくるようになりました。

伝統を受け継ぎアップデートする

三宅 これからなくなっていくのではないかという危機感を抱えつつ将来へつなげていきたいという強い思いがあるということですか。

西尾 そうです。現代的なやり方もやってみたいなと思って、今年から不動産特定共同事業に取りくんでいまして、その認可が下りれば一般の方に投資していただけるようになるのです。美山町には今、五百軒ぐらいの茅葺きがあるのですが、それがどんどん空き家になって売りに出ていくので、皆さんからの投資金で買い取って、それをシェアしていただくというように取り組もうと頑張っています。

田村 西尾さんの焼き芋屋さんの話とか給料いらないから教えてくれといった話は、周囲からは「あほや」とか「何してんねん」と言われたんでしょうね。私も、親とかに大反対されて「料理人が学校の先生をしてどうするねん」とか言われました。よく頑固だと言われますけれども、やはりそういうものを捨てたらいけないのだなと改めて思いましたし、大学にこういう同窓がおられることがわかってすごく勇気をいただきました。

三宅 一昨年前の白川郷と美山町で開催された「世界茅葺き会議」の場で、外国の人々から「自分たちはノスタルジーを捨てた」と発言があったそうですね。

西尾 そうです。「ノスタルジーはもう二十年前に卒業した」とどの国の方も言っていました。やっぱり二十年前は日本みたいに各国とも歴史的な技術という中でしか生きていなかった。当然産業としては廃っていく中でしたけれども、そこからいかに受け入れられるかということへ方向転換をしたのです。それで私も日本の茅葺きというのは「日本人の永遠性を表現された神殿である」という日本人の精神性をすごく伝えているものでありつつ、そこから脱却したものもこれから造っていきたいなと思っています。

田村 和食の世界も一緒です。皆さんは、残さなければいけないものは日本食の懐石スタイルと思っておられるでしょうが、それを日常生活で使えるかといったら、そうではないですよね。我々も生活がありますし、外食産業の枠組みの中でやっているのでは絶対に太刀打ちできません。その中でいかに皆さんにその価値を認めていただけるか。我々は受け継いできたものだけでなく、新しいものを発信しようとしていますが、それは、いかに今の人たちにマッチしたものを提供することができるか、そして皆さんがそれにお金を払ってくださるかどうかというようにやっていかないと成り立たないわけです。そういう意味で現代的なものに変わっていかなければいけないだろうし、だから西尾さんがおっしゃっていることは本質的には一緒なのだなとお聞きしていたのです。

三宅 そういう意味で「伝統」という言葉の意味というのは、何か昔からぜんぜん変わっていないものというのとは違う意味合いで捉えたらいいのでしょうか。

田村 ベーシックなものは一緒だと思うのですけれども、我々もよく言われるのは「親父と同じ料理をしてたら絶対あかん」と。でもそれは十年前二十年前と比べたら全く違うことをしていてもそれをわからないようにちょっとずつ変えていく、しかし、そのためにはしっかりと前のものを学んでおかないと受け継いでいけないし、全く違うものになってしまいます。
前のものをしっかりと理解したうえで自分のときにアップデートしていくことが大切なのかなという意味でも時間と労力は必要です。ただ、それは若い人たちはなかなか理解できないというか、私たちも理解できなかったのかもしれませんけれども。

三宅 理解できなくてもそこに飛び込んでみると理解できるようになっていくというところがあるのかもしれませんね。

西尾 今茅葺きでは、草で二十年もつ屋根、しかも美しい屋根を造るのですけれども、やっぱり先人たちが手をかけてできているわけで、例えば茨城県にはすごい技術がありまして、いろいろな素材を使って色鮮やかにストライプ状に造るのです。藁で白い屋根をつくって、次に煤けた古い茅で黒い屋根をつくって。また、千葉県では一度松の葉っぱを混ぜた層を見たのです。私はそれを解体したときにここまでやるかと思ったのです。そのときにこれを造った人が語り掛けてくるというか、「考えて考えて俺はこれをやってみたんや」ということを感じたわけです。だからそういう創造力というかチャレンジというか、それが私たち茅葺職人としての伝統だと思っているのです。だから今衰退していっても、そこから盛り返してやるぞ、どうやったらいけるかなというのが私たちの伝統なのです。

三宅 茅葺きは、古いものを取り除いていく際にそういう先人の残したものを目の当たりにするというところがあって、そこが職人のさらなる挑戦心というのを掻き立てるところがあるのですね。

西尾 はい。屋根の上から順番に取っていくのですけれども、ここで雨が降ったなとか、ここで材料がなくて古いのを使ったなとかやりながらわかります。

三宅 最後に、今後大谷大学の卒業生となっていく方に期待したいことがありましたらお願いします。

田村 今みんなオリジナリティーとか自己表現とか言うわりに、結局収まってくるところは一緒かなと。私たちのときもそうでしたけれども、やっぱり待遇が良いとか休みが多いとかそういうところでしょうか。もし本当に何もやることが見つからなかったら、その社会の歯車になるのではなくて、モノをつくって自分で生産できる能力みたいなことを見出してもらえる、そんなモノづくりの世界に、ぜひ踏み込んできてもらいたいです。別に大学卒業でもぜんぜん遅くないですし、ただその代わりサラリーマンみたいな生活はできませんよというのがあるでしょうけれど(笑)。 

三宅 自分の能力、可能性に挑戦してみてほしいということですね。お二人のお話をお聞きし、「伝統」とは何かとか、人は何のために働くのかということについて、大いに考えさせられました。本日はどうもありがとうございました。

京料理 萬重(まんしげ)
創業 昭和12年(1937年)

〒602-8438 京都市上京区大宮通り上立売下る芝大宮町9-1
TEL:075-441-2131
ホームページ:http://www.kyoryori-manshige.co.jp
携帯サイト:http://bemss.jp/kyoryori-manshige/
織の町西陣中心地に位置し、旦那衆から愛されてきた料理屋。
初代の「味のふるさとづくり」をモットーに毎朝主人自らの目利きで仕入れた季節の食材を提供する。
若主人は文化庁文化交流使、京都観光おもてなし大使でもある。

ニシオサプライズ株式会社

〒601-0751 京都府南丹市美山町島英サ29
TEL:0771-75-5125
ホームページ:https://www.miyamafandb.com/
茅葺き一日一組一棟貸しの宿「美山FUTON&Breakfast」現在4棟運営中‼ 「美山F&B」で検索
著書『私は、なぜ茅葺き職人になったのか』
Amazonにて販売中

Copyright © Otani Univ. KOUYU Center. All Rights Reserved.